みなも泳ぐ水鳥も

観劇と他の趣味

2020「大地」(配信)

Social Distancing versionと銘打って、復活ののろしを上げた作品。

正直えらいものを背負ってしまったと思ったんだけど、席数半減して舞台上も客席もできる限りの対策を打って配信も複数回やって、無事に完走。

このメンバーで再開を飾ることができたのは良かったのかな。

 

元のチケットは中止、再販後のチケットもいろいろあり、結果的に配信で2回観劇しました。

 

観劇してて、これが見れたらもういいやってシーンがある場合があるんだけど、今作はそれが1幕ラストの晩餐のシーンだった。
晩餐を楽しむ俳優たちの姿に涙が溢れるとともに、その後ろに抜けるチャペックの表情が苦しい。

 

ドランスキー、一人称が「僕」のキャラ造形がもっのすごく好きだった。

隙もあって話し方もちょっと子供っぽい、馬鹿にしてるけど押し切られたら芝居を信じてしまう幼さがあって、翻弄される姿に可愛げを感じる。

だからこそ、2幕で笑顔と口調は変わらないまま、表情から怒りがにじみ出ているの中に見える、自分の一存でこの「劇団」を叩き壊すという怒りがものすごく怖かった。

今作の前に「12人の優しい〜」を見れたからツルハの解像度があがった感じがある。
相島さんのああいう融通のきかない正義の役、あまりにも刺さるので見ていてつらい。

 

ツベルチェクの展開については、正直腹落ちできない部分がかなりあった。

 

・お茶の‪日に結果何もなく、「触るな!」と言ってもドランスキーが怒らなかっただろうこと(2幕で「あの日も言っただろ!」と怒鳴ってもなお機嫌を取ろうとしている)と、1幕後半に帰ってきた直後のツベルチェクの態度の整合性(この態度から周囲が察してゆで卵→晩餐につながる)‬
(直接の被害があろうとなかろうと嫌だったという態度の表明はもちろんありうるけど)

・結果的に身体的被害がなかったとして、そのような危惧がある場所に「生贄」として差し出して、帰ってきた後の残りのメンバーの空気感

(観客が笑っただけの可能性はある)

・「女形は、心も女性の役者と演技の力でそう見せている役者の2種類で、俺は後者だ!」「妻もこどももいる」の台詞の意図
(男が好きな男じゃないから本当は行きたくないということ?性自認と恋愛対象は違うよ)
(そして当然性自認が女性で恋愛対象が男性で家族がいないからといって、加害の可能性がある相手とふたりきりにしていいわけではない)

・1幕の展開を受けて、2幕始めの「自信がついたのか態度が大きくなっている」の意味
(チャペックが言った通り「手玉に取ってやった」成功体験?にしてはやや説明が足りない?)(何にしても言い方よ、直前の涙の想像力晩餐との落差)

・作戦として積極的にドランスキーを誘う役を買って出ている
(上の整合性と同じ)

 

つまるところ、1幕ラストと2幕の展開が私の中では上手くつながらなかった。
被害の危険性をかわして任務終了した自信から役者として自信を持つのは、あの状況における俳優個人としてありえない話ではないのだろうけど、それを作品として描く手つきがしっくりこない。
現代にいる非表現者のわたしには読み解けなかった。俳優ならこの業が理解できるんだろうか。(嫌味ではなく本当に作品を作ってる俳優たちはあまりにも腹落ちするために描写が飛んでいる可能性は0ではない気がする)

 

チャペックを観客とするのも、彼はスタッフなのではという気がする。

2幕前半のドタバタに対する「こんな面白い奴らの芝居を間近で見られるんだから」に向かってるのかな。

裏方仕事のスタッフを観客と呼ぶなら、少なくとも見えていた範囲ではツルハもほとんど芝居してないし、最後の稽古で進行してるミミンコも観客と呼べるはず。
今回の上演に際して足されたのか元々の展開なのかは分からないけど、あの結論はこの時期とても刺さるけど、やっぱり展開としては腹落ちしない感じがあった。

 

ブロツキーの「自分が行く」と言うシーンが毎回胸にきて苦しかった。
それ自体は嘘でなく、本心でヒーローとして振る舞えたらと思っているけど、どこかで止められることは分かっていて、名指しされたチャペックの代わりになることはできない。

 

根幹は役者の業の話、どこまでの経験なら芝居に生かすことができるかということなのかなと思った。
座長が言うことには、人の痛み弱さを経験して芝居が深くなるはず、だけどあれほどの痛みと自分の弱さを身をもって知ったあと、ブロツキーとミミンコ以外は役者をやめてしまった。

ミミンコはチャペックの近くにいて、彼や他の先生たちによって生かされた。
ブロツキーは"オーディション"に落ちた人の分まで前に進むと腹をくくっている。
芝居の上手さ、唯一無二かどうかで生死を決めることを見過ごしてしまった唯一無二な俳優たちが、その唯一無二さを活かして生きていけるのかどうか。

 

配信も状況への適応のひとつの手段だったけど、肉眼じゃ見えない表情、晩餐の後ろに抜けるチャペックとか最後のピンカスの表情とか、がアップで見られてよかった。
時々なんで私は客席にいないんだろって気持ちに襲われることはあったけど。

 

晩餐のシーンとブロツキーが名乗り出るくらいからラストまでで久しぶりに「心が動かされて泣く」が発生した。
カテコで「観劇したんだな」って実感して泣いた。

 

あと本編見終わってからティザー映像見ると、よくできてるな〜〜〜!!!って驚く。
PARCO劇場こけら落とし公演」と「social distancing version」と本編のエッセンスを入れてここまで単純化した映像に落とし込めるのすごい。

 

メディア向けに絡むふたりがいつもあんな感じだからこそ、三谷作品で大泉洋にあてがかれる役に、彼に求める役割に毎度くぅ〜ってなる。

sence of humorが欠けている男、弁が立つ人たらしだけど自分の中身が不足していることを自覚している男、生きるために人身掌握して上手くいったりいかなかったりする男。

 

この2年後に、お茶の間を恐怖と熱狂の渦に巻き込むことになりましたが、これからも末永くタッグをよろしくお願いいたします。